ようこそ、Cirhcへ。学問研究の変化を意識しつつ,その困難に挑む。

主な研究

 研究1 論理学・数学の哲学及び科学基礎論研究

 数学におけるプラトン的実在論の擁護:選択公理に関する諸問題(概要)

             click here to see in English   (英語版)
プラトン的実在論と構成主義の対立は数学の哲学の分水嶺を成す。プラトン的実在論とは、数学的存在者を一つのモノとして、超時間的空間的に措定する哲学的立場を指す。なるほど、数学的認識はこのような哲学にあずかって大いに拡張されてきたが、ラッセルのパラドックスをはじめとする様々な背理が発見され、「数学の危機」とさえ呼ばれる事態が生じるに至った。そのアンチテーゼとして、もはや数学的存在者を独断的に措定せずに、時間空間の中で構成可能なものに数学的存在者を限定しようとする構成主義の哲学が、一世を風靡することになった。しかし、この立場では、確かにラッセルのパラドックスのような背理は回避されるが、古典数学の実り豊かな成果を犠牲にしなければならないという大きな代償を支払うことにもなる。
両者の対立は、とりわけ、選択公理をめぐる論争に象徴されている。プラトン的実在論者は無限回の無作為の選択による要素から成る集合を認める選択公理を受け入れるのに対して、構成主義者は選択公理を斥け、実効的に特定可能な要素から成る集合に限定しようとする。選択公理の非構成的な性格がルベーグ非可測な集合の存在を導き、そこからさらにバナッハ・タルスキーのパラドックスのような背理が導かれることも、選択公理に対する懐疑を一層深めた。しかし、このようなことは選択公理が斥けられる理由にはならない。バナッハ・タルスキーのパラドックスが背理と呼ばれるのは、論理的矛盾が導出されるという意味ではなくて、直観に反する定理という意味においてであり、反直観的な真理は珍しいことではない。ただ、バナッハ・タルスキーのパラドックスの特異性は、それが実効的に実現不可能なところにあり、超時間的空間的なプラトン的なイデアの世界を想定することによってはじめて正当化される。
選択公理は集合論を超えて、抽象代数、実解析、トポロジー等、現代数学の幅広い分野で活躍しており、選択公理なしでは数学全体は大きな制約を受ける。多くの数学者が選択公理を受け入れるのは、ルベーグ非可測な集合の存在や実数の整列可能性が、より実り豊かな数学の可能性を開くからである。ベナセラフは、「知覚の因果説」に基づいてプラトン主義を批判した。しかし、数学は自然科学と違って、本質存在と事実存在の間に緊密な結びつきがあるのであり、真の数学理論は、数学的存在領域を記述する最大限論理的に無矛盾な理論であると言えよう。

 研究2 義務論的倫理学の研究

 ヒューム及びカントにおける道徳の基礎づけ(概要)

             click here to see in English   (英語版)
道徳の基礎づけに関してヒュームとカントの間にはかなりの隔たりがあると通常考えられている。即ち、ヒュームは道徳が我々の印象や情感に基盤をもつと主張し、カントは他者を目的と見るあらゆる理性的存在者のもとに道徳法則を確立した。しかし、両者の見かけ上の違いにもかかわらず、ヒュームもカントも人間のうちに道徳の基盤を求めると同時に、道徳に一般性や普遍性を求めている。なるほど、ヒュームは道徳の合理主義的基礎づけを斥けたけれども、人間本性の一様性に訴えて主観主義・相対主義に陥ることを免れた。ヒュームの論点は、道徳的な善悪の区別が単なる理性に基づく論理的関係には還元できず、我々の印象や情感によってこそ、その区別が可能になるということであった。しかし、この点に関しては、カントも定言命法の三つの異なる定式化が基本的に同値であると説くことによって自らの教説が単に形式主義ではないことを力説している。
以上の点を踏まえた上で、本論文の主旨は、道徳の基盤を人間本性に置くヒュームの倫理学が本当に道徳的区別を特徴づけるのに十分であるか否かを探究することである。その手がかりはロックの社会契約説に対するヒュームの批判のうちに見出される。社会契約説は自然法論と関係が深く功利主義と対置されるが、ヒュームの倫理学の特徴は社会契約説批判が必ずしも自然法の否定に導かないところにあり、それ故、この時点でヒュームを功利主義者と見るのは早計であろう。即ち、ヒュームは、所有の安定、同意による所有の移譲、約束の履行の三つを基本的な自然法則と見なし、ただそれが社会契約から生じることを歴史的考察に基づいて批判したのである。
しかし、ヒュームは、自然法の基礎づけの弱さのために、自然法を道徳の基礎づけの中心に据えることができず、最終的には功利主義の方向に傾斜していく。ヒュームが社会契約の代わりに認める正当な主権の源泉は、長期間の所有、現在の所有、征服、世襲相続、実定法の五つである。また、ヒュームは、自然的な徳と人工的な徳を区別し、正義を後者に分類する。従って、ヒュームによれば、自然法は人間本性に由来する徳がもつ強さを備えていない。道徳に超越論的ないしは形而上学的基盤は必要ないまでも、ヒュームの倫理学が倫理価値を確立するのに十分な規範的な力をもちうるかは疑問であり、カントが道徳の基礎づけにおいて乗り越えようとしたのもまさにこの点であった。

 ビジネス倫理への義務論的アプローチ:利潤の最大化を超えて(概要)

             click here to see in English   (英語版)
ビジネス倫理へのアプローチの一つの方法は、道徳的義務の遵守がビジネスの成功に埋め込まれているというものである。なるほど、ビジネスと倫理の間にはあたかも齟齬があるように見える。ビジネスの目的としての利潤の追求そのものが反倫理的活動と目されるからである。しかしながら、ディジョージが「不道徳ビジネスの神話」と呼んでいるように、企業が道徳的判断に全く無関心であるならば、そのビジネスははじめから破綻する運命にあるであろうというわけである。本論文の主旨は、この種のビジネス倫理の擁護は、一見魅力的ではあるけれども、ビジネス倫理の規範的基盤を十分に与えることができないと主張することである。というのも、利潤の最大化を超えていく道徳的義務が、もしそういうものがあるならば、この見解によっては捉えきれないからである。
近年多くのビジネスにおいて企業統治のモデルが株主中心のモデルから従業員や顧客等そのビジネスに利害のある者全体を考慮したより包括的なモデルに転換したにもかかわらず、依然としてビジネスと倫理の間の緊張は残ったままである。また、新しい法律や規制、とりわけ、連邦量刑ガイドライン(1991)やサーベンス・オックスリー法(2002)の施行は、様々な企業スキャンダルからして必要不可欠であるにもかかわらず、反倫理的行為を防ぐにはなお不十分である。こうしたことの理由は、帰結主義(功利主義)と反帰結主義(義務論)の論争に照らして明らかになる。善の最大化を旨とする功利主義は、すべての人の基本的権利(生命、自由、財産)を重んじる義務論としばしば衝突する。とりわけ、義務論的見地からは、社会全体の効用のためにその一部が犠牲にされることは断じて許されない。さらに、義務論的見地から文化相対主義の限界も指摘される。
フリードマンは「ビジネスの社会的責任は利潤を増やすことである」(1970)という記事で、自由市場が政府の介入なくして反倫理的行為の自然な抑止力になると主張した。ボウイもまた道徳的義務の遵守はビジネスの成功に埋め込まれているという立場に沿っている。しかし、利潤の最大化に組み込まれる反道徳的行為もあれば、そこには組み込まれない道徳的義務もある。利潤の追求は比較的容易に道徳的義務の遵守をすり抜け、ビジネスの慣行から反倫理的行為を防ぐ外的な力が必要である。とはいえ、それが形式的厳格主義や意志の他律に導かれないということがカントの義務論からの教訓であった。

powered by Quick Homepage Maker 4.77
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional